アロウズ

1977年の末に、シャドウチームからリース・オリバー・ウォス・サウスゲイトが独立する形でチームが設立された。ドライバーは新鋭のリカルド・パトレーゼをシャドウから引き抜いた。また、デビューイヤーを戦うマシンとして「FA1」を製作したが、これはシャドウの「DN9」と酷似していたことから、コピーではないかとのクレームが出された。結局、アロウズはこの訴訟に敗北し、1978年シーズンの終盤に再設計した「A1」をデビューさせることとなる。1980年代中盤にアメリカの損害保険会社のUSF&Gがメインスポンサーにつき、財政状況が向上した。 この様な状況の変化を受けたアロウズがコンストラクターズランキングで最も上位になったのは、メガトロンエンジン(BMWの市販バージョン)を搭載した1988年であった。この年はデレック・ワーウィックがコンスタントにポイントを獲得し、エディー・チーバーもイタリアGPで3位表彰台を獲得した。最終的な順位は4位であったが、実はシーズン最終戦を終えた時点では6位となっていた。 しかし、ベルギーGPでベネトンの燃料規定違反による失格裁定が確定すると、このレースで7、8位フィニッシュしていたアロウズが繰上げで5、6位となり、この3ポイントがきいて、同点で並んでいたウィリアムズや2点先行していたマーチをかわし、ロータスと並ぶコンストラクターズ4位に躍進することとなった(当時は現在と異なり、ポイント圏外の成績までを考慮した順位ではなかった)。 ターボエンジンが禁止された翌1989年は、コスワースの市販エンジンを搭載し勢いは落ちたものの、マシンバランスはよく、ワーウィックがところどころで光る走りを見せた。 2001年にはプジョー改めアジアテックエンジンの無償供給を受けるものの成績は低迷し、ついに翌2002年のモナコGPで撤退の話が出た。当時ウォーキンショー代表は明確に撤退を否定したが、イギリスGPで再度撤退するのではないかとの噂が流れた。次戦のフランスGPでは両ドライバー共に予選アタックを全開で行うことなく「予定通り」に予選不通過となる。結局、ドイツGPを最後に一時休止の決断をするが、その後復活を果たすことなく、足掛け25シーズンにわたるアロウズのF1参戦は終止符を打った。